四月は煙い暖かな靄

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カズオ イシグロ『充たされざる者』ーおっさん版不思議の国のアリス

2015年には『忘れられた巨人』が10年ぶりの長編として発売され、翌2016年には『わたしを離さないで』がドラマ化されるなど、書店でもカズオイシグロ売り場が常設されたここ約2年。『わたしを離さないで』とともに、ブッカー賞を受賞した『日の名残り』や、処女作『遠い山なみの光』などもよく一緒に並べられていましたが、滅多に見かけなかったのが、問題作『充たされざる者』。この作品は本当によく「問題作」と評されていますし、「評価が分かれる」と書かれていますね。

 

なぜ問題作などと言われているのか?それは、今作でイシグロは世間の期待に応えるのではなく、渾身の挑戦をぶつけたからではないかと私は思います。そしてこの作品は、私の中ではカズオイシグロの作品中特にお気に入りの一冊でもあります。ですので、今回レビューを書いてみようと思ったわけです。

 

まずこの本、『魍魎の函』かと思うほどの厚さを誇ります。私は文庫本はいつもお気に入りのブックカバーに入れて読みますが、さすがにこの作品はパツンパツンでした。書店になかなか並べづらいのもわかるような・・・幅とりますからね。

 

物語は世界的ピアニストライダーが、「木曜の夕べ」という演奏会のためにある街を訪れるところから始まります。その街には閉塞感が溢れ、誰もがすれ違い、望みがかなえられないでいます。ライダーの演奏は街の人々の待望のはずなのですが、なぜか何もかもがグダグダなのです。演奏会の段取りははっきりしないし(本人も確認するチャンスを逃し続ける)、誰もかれもが長話をしてくるし、頼みごとをしてくるし。そしてそれを断らないライダー。頼みごとをやり遂げられてもいないのに、ほかの人の言うことも聞いてあげて、それも満足に果たせていないのにまたほかの人が・・・の繰り返しなのです。それはまるで悪夢です。恐ろしい夢というよりは、抜け出せない、なんで?というような、現実と区別がつかないような悪夢が繰り広げられています。

 

この作品の魅力は、その悪夢に浸る気持ちよさにあります。黄昏の、陰気なヨーロッパのどこかの街。人々はみんなやるせない物語を抱え、ライダーを自分の人生に巻き込みます。この、わけもわからず片足を突っ込んでいく感じ。こんなにもドタバタしている物語の中にあって、登場人物たちの描写がどこまでも静かで優しく深いのです。読むうちに「そんなこと聞いてる場合じゃないよ!」という気持ちと、「何とかしてあげなきゃな・・・」という気持ちがせめぎ合ってきます。主人公の邪魔ばかりするどうしようもなくウザくて重い登場人物たちを、なんだか愛しく思わせる、カズオイシグロの文章の素晴らしさ。この長さでありながら、全編にわたって味わって読んだ挙句、最初から読み直したくなってしまいました。

 

いうなれば、「おっさん版不思議の国のアリス」。

 

イラつくけど癖になる悪夢の中をさまよい、誰もが充たされない物語の結末に向かっていく。不条理極まりない状況に振り回される主人公を見守るうちに、その奇妙な街の虜になってしまいます。

 

作者自身はインタビューでこの作品をコメディーであると語っていました。確かに、哀愁と、不条理さと、無力感と、何とも言えない切なさが全編にわたって満ちているこの作品ですが、随所で突っ込みを入れたくなるような笑いが潜んでいます。そして手首の疲れるようなこの長編を読み終わった直後、私の感想として真っ先にこぼれた言葉は「・・・充たされなかった(笑)!」でした。